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RISHIRI REPORT

Tuesday, February 28th, 2017

The following reports (in Japanese) were written by two students from Rishiri High School, Yuto Shima and Haruno Tsutsumi,  and their foreign language teacher, Junichiro Miyamoto, after completing their visitation to Spokane and Toroda, Washington and Portland and Astoria, Oregon, spending 5 days in each State.  They visited the grave site of Ranald MacDonald near Toroda, Washington and attended classes at Colville High School in Republic, Washington with other local students. They were guided by a long- time member of FOM and the author of the book “Unsung Hero”, Atsumi Tsukimori McCauley of Spokane, WA.  Next the three flew to Portland where they were joined by Rishiri H.S. Principle, Mr. Tsubokawa, and the PTA President, Mr. Yoshida. The five were guided by FOM Chairman Mas Yatabe to meet with Council General of Japan in Portland, Kojiro Uchiyama, who gave the two students’ self-introduction speeches in English a high grade of “A” as if they were his students, which made Principal Tsubokawa, Foreign Language teacher, Mr. Miyamoto and Mr. Yoshida, the PTA President very happy.   The five from Rishiri were driven by Chairman Yatabe to Astoria where they visited the birth place monument of Ranald MacDonald and later they were taken to Astoria High School where the students met host families and the Principle of Astoria High School, Mr. Lynn Jackson.  Although their stays in Washington and Oregon were short, they, in particular the students, learned a great deal about the diverse nature of the people and the culture of US, and the independence of US students compared their Japanese counterparts.  Both students were very appreciative of the host students’ and their families’ kindness in Republic, Washington and in Astoria. Oregon.  

マクドナルド短期留学研修を終えて 北海道利尻高等学校 

2 年 A 組志摩祐斗 

私は今回のアメリカ短期留学研修を通して、沢山の新しい経験をすることができました。私は留学に行く前は、英語がどれくらい通じるのかということや治安面について不安に思っていました。しかし、実際に行ってみると現地の方々が温かく迎えてくれたり、ワシントン州の大自然に囲まれた町やオレゴン州の洗練された町で生活することができて、とても幸せでした。

私が感じた日本とアメリカの違いは、アメリカ人は日本人より自立しているということです。アメリカの高校生の多くは免許が16歳で取得できるため、自分で車を運転して登下校をしていました。その  他にもホームステイ先の5歳の子が自分の部屋を持っていて夜は1人で寝ていました。このように現地の人は日本人よりも自立していて、その分高校生になると自分で責任を取らないといけないことも増え  るので、日本人よりも大変になるのではないかと考えました。

また現地の高校を訪問してみて沢山の文化の違いを感じました。握手を求められたり、仲の良い友達同士でハグしていたり、授業中にご飯を食べている生徒もいました。また私が理解できなかった英語を、日本語を習っている生徒が頑張って訳してくれたり、利尻について質問してくれたりと、とても責任感が強くて積極的な人が多く、現地の高校生から学ぶことがたくさんありました。

ホームステイ先では多くのおもてなしや気遣いをしていただき ました。おやすみやおはようなどの日本語を覚えて使ってくれたり、お土産の箸を使ってくれたりしました。また、私が卓球部だと言うと、卓球場に連れて行ってくれました。このようにアメリカ人はサービス精神が日本人よりも多く、ホームステイではとても有意義な時間を過ごすことができました。

私の留学の最大のテーマはコミュニケーション能力の向上でした。現地の方々は私が利尻や家族について紹介すると、大きなリアクションを取ってくれたり、会うと笑顔で挨拶をしてポジティブな言葉をたくさんかけてくれたりしました。私は現地の方々と話してみて、コミュニケーションを取ることの楽しさを改めて実感するとともに、沢山の元気をもらいました。

今回の短期留学では日本の良さを再確認することもできました。アメリカでは空港の椅子が食べ物で汚れていたり教室の  床に本がちらばっていたりしました。その他にもゴミの分別がなかったりコンビニが近くになかったりと、日本ではあまり考えられないようなことが普通に行われていました。このようなことを通して清潔で環境が良く、安全な日本はやはり良いところだと感じました。

今回もラナルド・マクドナルド短期留学ということで、ラナルド・マクドナルドが育ったトロダという町に行きました。トロダは建物が少なく自然がたくさんあり、利尻よりも田舎な町でした。彼はこの田舎町で育ったからこそ、後に日本に漂流を装ってまで行く冒険心や勇気が生まれたのではないかと私は考えました。これからは今回の留学を機により一層英語の勉強に力を入れるとともに、魅力的なアメリカでの経験をたくさんの人に伝えられるよう努力していきます。

 

マクドナルド短期留学研修を終えて北海道利尻高等学校 2 年 A 組堤春乃

中学生の頃からの目標だったこの短期留学。事前研修が進むにつれ、アメリカに行くという実感が湧いてきました。これまではただただ楽し みなことしか考えていませんでしたが、期待と同時に不安な気持ちにもなってしまいました。しかしいざ飛行機に乗ってアメリカの土地に足を踏み入れてみると、不思議なことに不安が一瞬で払拭されました。「たくさん学びたい。たくさん楽しみたい。いい思い出を作りたい。」あの頃からずっと憧れていたことがいまこの瞬間に叶っているんだ、と思うと自然と強い自分になれました。振り返ると、私の夢の時間はあっという間に終わってしまいました。

日本からテレビやインターネットで見るアメリカと、実際にその土地にいって実感するアメリカの文化は大きく違いました。特にカルチャーショックを受けたのは現地の高校です。私たちと同じ年代の子がどのようなライフスタイルなのかを一番間近で感じられる良い機会でした。しかしもう何もかも違いすぎて驚くことばかりでした。『日本の高校生』と『アメリカの高校生』の違い、授業体制の違い、部活の仕組みの違い。知ること聞くこと全てが新鮮でした。また、現地の高校生は私たちにたくさんの興味を示してくれました。アメリカにはない制服、日本の文房具、歴史や言語などについて質問をしてくれました。その中でもとくに印象的であったやりとりは、『日本語』についてです。日本語に興味を持

ってくれた子に、「日本人は文を書くときにひらがな・カタカナ・漢字の 3 つを使うんだよ」と私の名前を使いながらそれぞれ紹介しました。するとその子は「私の名前を漢字で書いて」と要求してきました。当然書くことはできなかったのですが、私たちが普段当たり前と思っていることがそうではないことを身をもって感じられた出来事でした。文化・言語の違い、人との出会いや新たな発見をできたからこそ、心から楽しむことができたのだと思います。

ホームステイでは今回の研修の中で最も濃い時間を過ごすことができました。正直、言葉の壁はとても大きな障害でした。もちろん耳に入ってくる言葉は全て英語。それもネイティヴの人たちなので初めは聞き取ることが非常に困難でした。自分がダメダメで、自信がなくなってしまうこともありました。しかしそんな私にも「心配しなくて大丈夫だよ」「もっとゆっくり話そう」などと気を遣ってくれる、

優しい家族の下でホームステイできたことをとても嬉しく思います。テレビで放送されているアメリカンフットボールの試合を全員で応援したり、ハロウィンのためにジャックオランタンを作ったり  と、初めての体験もさせていただけました。この短期間で多くの思い出を残すことができ、ホストファミリーの方々の気遣いや優しさ、心の温かさなど素敵な人間性を感じられる大切な時間となりました。

そして、現地で日本人のあやのという女の子に出逢えたことは、私の人生の強い支えになったと思い  ます。彼女は私の1軒目のホームステイ先に8月から交換留学生としてホームステイしていました。同い年にもかかわらず家族のもとを離れて1人で外国に飛び立ち、自らの力を使ってアメリカでの生活を送っている彼女のたくましさに圧倒されました。そんな彼女が大切にしている言葉を教えてくれました。

『YOLO(You Only Live Once)』。人生一度きり、という意

味があります。彼女はその言葉を支えに過ごしているそうです。たった 2、3 日しか一緒にいられませんでしたが、同じ日本人で同じ年齢で同じ性別の彼女の存在は、この人生で決して忘れることはないだろうと思います。滞在中は自分自身を客観視できる場面が多々ありました。自分の足りない部分や欠けている部分を見つめ直すことで、向上心をあげることに繋がり、自然と意欲的  になっていったように思います。なんとなく過ごしていた時間も視線を少し変えてみるだけで何か生ま れてくるものがある、とこの研修を通して気づかされました。アメリカでは月森さんと谷田部さんにとてもお世話になりました。街の紹介や車での移動だけでなく、知らない土地で右も左も分からない私たちの心の拠り所にもなっていただいたように思います。またマクドナルド友の会会長の古川さんや歴史研究家の西谷さんをはじめとするたくさんの方々や両町のご支援、そして温かく見送ってくれた家族に心から感謝しています。私がこうして目標を一つ達成できたのは、周りの支えがあったからだと実感しました。

「行けばわかる」。確実に自分の中で何かが変わります。小さい島から大きな国へ渡るのは勇気がいることですが、大きな一歩を踏み出すことで、自分の世界が広がるはずです。行ったからこそ味わえたこの研修の魅力を次の世代の人たちに発信して、少しでも多くの人に関心を持ってもらえるようこれからも努力していきます。

 

マクドナルド短期留学研修を終えて北海道利尻高等学校       外国語科教諭          宮本順一郎

8月の夏休み中から参加生徒と本格的な準備を始め、出発が近づくとマクドナルド友の会の方々と細かな打ち合わせを持つようになった。その打ち合わせの中で初めて、これほどまでに多くの方々からご支援をいただいている事業なのかということを知った。汗顔の至りである。ご支援をいただいているすべての方々に衷心よりお礼を申し上げたい。

人生において経験しておくべきことが無数にあるが、海外へ行くこともその一つと言えよう。十代後半、しかもこの短期留学のために英検の勉強をしてきた二名にとってはベストタイミングである。私の ような四十代の者が想像するより遥かに多くのものを得ていることは、二人が語らずとも雰囲気から感じ取ることができる。この短期留学がかくも刺激に満ちたものであることに、帰国して初めて気付かされたのである。

 

二人の成長が垣間見えるエピソードをご紹介して、ご支援を頂いている皆さんの御恩に僅かでも報いる ことができれば幸甚である。

ワシントン州でのホームステイを終え、ポートラン ドに向かった。到着して昼食を取った後、在ポートランド領事事務所へ。そこで二人はそれぞれ、内山浩二郎総領事(写真中央)に英語でスピーチを行なったが、実に立派なスピーチであった。私なんぞ、日本 語でもあれほどのスピーチはできない。内山総領事からは「ABCの3段階で『A』」を頂戴した。大したものである。短期留学期間中、最も緊張を強いられた時間だったのではなかろうか。そして、これほど改まった場で外国語を話す機会は、極めて稀有なことである。二人の人生において、実に大きな財産になったと信じる。

そして、帰国後、在札幌米国総領事館へ行き、ハービー・ビーズリー広報・文化交流担当領事(写真左) と面会する機会を設けていただいた。言うべき内容を頭に入れ、ビーズリー領事に向かってスピーチをする二人だったが、領事は文ごとに合いの手をお入れになったり、質問をなさったりする。これは二人にとって想定外のことであった。無論、私にとっても想定外。内心、「これは厳しい」と思っていた。しかし、そこで展開されたのは、領事とのやり取りを楽しむ二人の姿であった。日本語も交える心配りをなさるビーズリー領事には、帰国間もない我々を労うかのように、心地よい時間を提供して頂いた。さて、この短期留学に並々ならぬご尽力をいただいているのが、コーディネーターのお二方である。最初に行ったスポケーンでお世話になったのが月森愛鶴美さん、その後、ポートランドでお世話になったのが谷田部勝さんである。お二方の善意がどれほどのものか語りつくすことができない。私のような人見知りをする人間には、意気投合する人がそう現れるものではない。しかしアメリカで出会うことになるとは予想だにしていなかった。それが月森さん(写真右)である。人見知りはするが図々しい私は「お母さん」と呼び、この上なく寛容な月森さんはそれを許してくれた(と解釈している)。人間観察眼があまりに鋭く、自分でも気づかない一面を指摘されたときは、ぐうの音も出なかった。メールの最後に、「アメリカンマザー」と書いてくださる月森さん。たった数日で、本当に多くのことを教えていただいた。谷田部さん(写真中央)とは、吉田PTA会長と本校校長も合わせた4人でご一緒させていただい た。道中いろいろと解説を交え、ありとあらゆるところにご案内いただいた。とにかく博識である。お陰でアメリカの自然を堪能することができ、その雄大さにただただ気圧されるばかりであった。レスリングをされていたタフガイとは言え、かなりご無理をお願いしたような気がしてならない。11月6日、ご子息が結婚式を挙げられたとの由。翌日、「息子の結婚式はお陰様で晴天に恵まれラッキーでした。」とのメールを頂戴した。慶賀に堪えない私は、記して谷田部さんとご子息のご多幸を皆さんとともに祈念したいと思う。

幸運にも、お二方とは胸襟を開いて本短期留学事業について議論する場面があった。厳しいご意見を   頂いたのも確かである。しかし、そのいずれも、お二方が本事業に精力を傾注なさっているからこそ聞くことができるものであり、また生産的なものであった。ほかの誰よりも、本事業の発展を望んでおられるのである。それにお応えできるものにする義務を学校側は負っていると痛感している。

一生忘れることのできない機会を二人に与えていただいた。そこで得た経験を糧にして、周囲の人た    ちより一層研鑽を重ね、自らを育てていかなければならないと二人には伝えたい。そして皆さんには、二人を温かく見守り、お力添えをお願い申し上げる次第である。

 

富田虎男先生から受け継ぐマクドナルド~~利尻島 西谷榮治

Saturday, August 27th, 2016

「マクドナルド上陸記念碑の建立を祝ってラナルド・マクドナルド利尻島上陸記念碑の建立に際し、私ども日本マクドナルド友の会から、心からお祝いを申し上げます。野塚岬の丘の上に立つと、はるか150年も昔、マクドナルドが草履をはき、二人のアイヌに手を引かれて、おぼつかない足どりで浜辺から上がってくる姿が眼に浮かびます。厳しい鎖国令下にある日本に潜入するため、慎重で大胆な冒険家マクドナルドが選んだ戦略は偽装漂流と、島の人びとの温情にすがることでありました。それは美事に成功し、野塚の番小屋では、タンガロと誤記された番人多治郎との暖かい友情まで生まれました。同じ平地に立って一対一で対等に向き合えば、いつの時代でも、どこででも、暖かい人間同士の交流が成立するのだ、という事をマクドナルドは身をもって示してくれたのです。10年ばかり前に、アメリカ側にフレンズ・オブ・マクドナルドが結成され、アストリアの丘の中腹にある生誕地に、マクドナルド顕彰碑が建立されました。ここ野塚の上陸記念碑とアストリアの顕彰碑は、太平洋を挟んではるかに向き合い、初めは言葉も分からない人間同士が、相互に相手を信頼し合えば、深い友情の絆で結ばれうるという事を、訪れる人びとに語り続ける事でありましょう。ひと言つけ加えたいと思います。それは、この記念碑の建立を誰にもまして悦んで下さるはずの二人の方を、最近相ついで失ってしまった事です。一人はフレンズ・オブ・マクドナルドの会長冨田正勝氏であり、もう一人は日本マクドナルド友の会の発展に尽くされた高橋正樹氏であります。お二人の御冥福を祈りたいと思います。1996年10月23日 日本マクドナルド友の会 富田虎男」

今から20年前の1996年10月23日、利尻島野塚岬に建立されたマクドナルド顕彰碑・吉村昭文学碑除幕式の立教大学名誉教授富田虎男先生の祝文である。

マクドナルドの利尻島上陸に手を引いた二人のアイヌ人、上陸してから芽生えた番人多治郎との暖かい友情。マクドナルドの生誕地米国オレゴン州アストリアの丘の中腹と日本国利尻島野塚とに太平洋を挟んで向き合う二つの記念碑。富田虎男先生の祝文を今一度読み直した私は、マクドナルドと島人たちの出会いを過去、現代において建てられた記念碑は物として使うのではなく、人は心と心、物は物語として膨らませて現代に繋げ、未来の交流を創って行く事の大切さ強く感じた。このことから、アストリアに建つ顕彰碑の上の五角形はマクドナルドが生まれたアストリア、捕鯨船から離れて上陸した焼尻島、初めて人と出会った利尻島、オランダ通詞たちに英語を教えた長崎、墓のあるトロダの五ヶ所を表していることになると思った。

病気療養中の富田虎男先生は2016年6月11日の未明、87歳で永眠された。家族葬にて6月16日午後6時から通夜、翌17日午前11時半から告別式が埼玉県所沢市の所沢市斎場で行われた。葬儀会場で富田虎男先生の遺影写真を見ながら様々に思いが蘇ってきた。

富田虎男先生がマクドナルドに出会ったのは1969年の劇団文化座「草の根の志士たち」だったという。公演で「長崎にはアメリカのインディアンがいて、アメリカでは一番偉いのは人民、その次が大統領」という台詞から、マクドナルドの事を知った富田虎男先生は、マクドナルドに縁のある米国・日本各地を訪れ、マクドナルドの日本回想記に書かれている事柄を確認しながらマクドナルドを追い続けた。その成果を1979年に富田虎男訳訂『マクドナルド「日本回想記」-インディアンの見た幕末の日本』として発刊した。その後、1981年に補訂版、2012年に再訂版を出している。発刊後に得た新しい資料等を基にして書き換えてきた。再訂版には「鎖国の日本に潜入した命知らずの大胆不敵な冒険家というラナルドのイメージは消え失せ、大胆ではあるが用意周到な冒険家というイメージが私の中に浮かんできた」と書いている。

富田虎男先生のマクドナルド研究の視点から「日米民間交流の先駆者ラナルド・マクドナルド-鯨が開いた鎖国の扉-」として、マクドナルドの調査研究とまとめを引き継ぎたい。~ Eiji Nishiya, Rishiri Isl., FOM Japan

MacDonald Scholarship Established on Rishiri

Sunday, February 10th, 2013

The “Daily Souya” newspaper, dated Dec. 11, 2012, reports that a scholarship fund named “MacDonald’s Encouragement  Study Fund” has been established on Rishiri Island.  A committee to support and manage the Fund has also been formed with Mr. Kyoji Furukawa as its first President.  Since the beginning of 2012 the leaders of Rishiri Island held a series of meetings intended to get the ground work done for devising a scholarship fund which would benefit the students of the only public high school on the island and in particular to encourage them to study English.  One or two top students will be chosen from the  English-language class and will be sent to America – to Oregon and/or Washington – to experience American life and to further encourage their English language skills.  The program hopes to nurture the type of “internationally-minded person” who will become a human asset to Rishiri Island and will help to sustain the prosperous and happy life-style of Rishiri Island.  Committee members hope that this program will encourage more students to attend Rishiri Public High School [whose student body is in decline].  We at Friends of MacDonald happily and enthusiastically go “on record” in fully supporting the “MacDonald’s Encouragement Study Fund” and it’s exchange program.

For those of you who are interested in assisting this fledgling program by either donating funds or hosting a student from Rishiri – or both – please contact Friends of MacDonald at amm@friendsofmacdonald.com .

Station Camp and Clark’s Dismal Nitch

Thursday, September 15th, 2011

Clark’s Dismal Nitch

In 1803, Thomas Jefferson dispatched Captains Meriwether Lewis and William Clark to lead the Corps of Discovery on a mission to find a water route across North America and explore the natural resources of the uncharted American West.  Little did Lewis and Clark realize that the time they would spend on the shores of the lower Columbia River would be counted among the most discouraging, dangerous, and disagreeable experiences faced during their expedition.

Imagine this: it’s early 1805, the fresh food had run out. The clothes were literally rotting off the backs of the members of the Corps of Discovery. They were traveling as fast as they could down the Columbia River, hoping to meet one of the last trading ships of the season. If they made it, they’d send a set of journals and some collections home as requested by President Jefferson. But foremost was the chance to use an unlimited letter of credit from the president, a chance to “charge” all the goods the tired explorers needed [plus perhaps get a little rum] from the trade ship.

What the Corps didn’t realize, however, was that it was about to run into some of the journey’s most treacherous moments. A fierce winter storm forced the Corps off the river and pinned the group to a north shore cove consisting of little more than jagged rocks and steep hillside. On November 10th, as the party paddled past Grays Point, they saw that the steep, forested shoreline consisted of a series of coves, or “nitches”, each divided from the next by a small point of land.  They passed present-day Dismal Nitch (also known as Megler Cove), but as the weather again worsened, the party retreated to a sheltered cove upriver from the Dismal Nitch, [approximately 600 feet north / northeast of the eastern end of the present-day “Dismal Nitch Safety Rest Area”].

Rain soaked the expedition party that night, and it continued at intervals throughout the next day, November 11, 1805.  Conditions worsened on November 12th; on top of rain, wind and cold came thunder, lightning and hail.  Clark describes their move from the unnamed cove to the Dismal Nitch:

“As our situation became Seriously dangerous, we took the advantage of a low tide & moved our Camp around a point a Short distance to a Small wet bottom at the mouth of a Small Creek (Megler Creek), which we had observed when we first came to this cove…”

The rain continued on November 13 and 14.   For only the second time in the expedition, Clark said he was concerned for the safety of the Corps. “A feeling person would be distressed by our situation,” he wrote in wet misery, as the expedition became in danger of foundering just within a few miles of its destination – the Pacific Ocean.  Finally, the storm broke and allowed the group to move on. It missed the trading ship, but eventually achieved its exploration goals. On the morning of November 15 Clark awoke to calm weather for the first time in 10 days.  Clark describes the party’s escape from what became known as “the Dismal Nitch”:

“About 3 oClock the wind lulled and the river became calm, I had the canoes loaded in great haste and Set Out, from this dismal nitich where we have been confined for 6 days…”

Dismal Nitch

Although the Corps met “near disaster” at Dismal Nitch, they arrived “in full view of the ocian” at Station Camp. [It was at Station Camp that the famous vote was taken that included all members of the party and the party decided to move the south shore of the Columbia River where they would spend the winter before beginning their long journey home: more about this later.] However, both before and after Captains Lewis and Clark established Station Camp, the site was a vital and thriving Chinook Indian village.  The Corps spent just 10 days here, but used Station Camp as a departure point for an overland trek to their first view of the Pacific Ocean and an exploration of the area. Together with nearby Dismal Nitch, Station Camp helps greatly to tell the Lewis and Clark story in Washington – and the ultimate effect the Corps of Discovery had upon the indigenous First peoples of the Pacific Northwest.

For thousands of years, the Chinook people have lived along the Columbia River and their home near the river’s mouth was strategically located to provide abundant food, such as salmon and shellfish. In addition, the nearby forests were home to game animals and the grasslands and marshes provided ample materials for making shelter, clothing and trade and household goods. The river provided a way for Chinook traders to travel to the south shore and up and down the Columbia.

Generations before the White Explorers came, the Chinook had already developed a sophisticated, rich culture and enjoyed great success as traders. The waterway near Station Camp became a virtual trade “water highway.” During the 10 years before Lewis and Clark arrived overland at this spot, almost 90 trade ships from Europe and New England are documented to have crossed the Columbia River Bar to trade with Native Americans. These ships brought metal tools, blankets, clothing, beads, liquor and weapons to trade for beaver and sea otter pelts. By the time the Corps reached the site, the Chinook’s had moved to their winter village and this village was unoccupied. The explorers spent almost two weeks there.

Several significant events took place, including the decision to spend the winter across the river, in what is now Oregon. It was Nov. 24, 1805, and the explorers desperately needed to lead the Corps to a winter campsite, one rich with game and near friendly tribes who would trade for supplies. A majority of the Corps, including the Indian woman Sacagawea and the African American York decided to cross the Columbia River to look for such a place. Because of this poll and decision, some historians call Station Camp “the Independence Hall of the American West.” It would be more than fifty years before African Americans could vote, and more than 100 years before the right was extended to women.

Station Camp

History of “Dismal Nitch”

The Dismal Nitch area is located within the traditional territory of the lower Chinookan people.  Through common usage, the term Chinook has come to refer to all speakers of the Chinook language family who inhabited the territory from the mouth of the Columbia River upstream to The Dalles and along the lower Willamette River to present-day Oregon City.

Of the many Chinook villages along the north shore of the Columbia River, two known summer villages were located in the vicinity of the Dismal Nitch.  Approximately 1.25 miles southwest of the Dismal Nitch was Qaiitsiuk, later called Chinookville or Chenook, just west of present-day Point Ellice.  The Lower Chinook were known for their canoe-building prowess, and their vessels helped them establish their reputation as traders well before Europeans set eyes on the region.

The Lower Chinook were first described in writing by Captain Robert Gray, who sailed into the mouth of the Columbia River in 1792, and by Captain George Vancouver, who also sailed into the area that year.  By the time Lewis and Clark descended the river in the fall of 1805, the presence of Europeans on the lower Columbia River was not uncommon.

Today, the Chinook Indian Nation is made up of five separate tribes, including the Chinook, the Willapa, the Clatsop, The Kathlamets, and the Wahkiakum.  All five tribes are Chinookan speakers.

The State of Washington is developing a park at Middle Village – Station Camp, focusing on the Chinook history, as well as telling the story of the Corps’. In 2005, archeologists found abundant physical evidence to support the importance of the site as a Chinook trade village. More than 10,000 artifacts were uncovered, including trade beads, plates, cups, musket balls, arrowheads, Indian fish net weights and ceremonial items. The European artifacts are from both before and after the Corps’ visit in 1805, and attest to the vitality of the Chinook social and economic life at the site. Station Camp eventually will encompass about 280 acres and be operated by the Lewis and Clark National and State Historical Parks.

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Station Camp http://www.nps.gov/lewi/planyourvisit/stationcamp.htm
History of "Dismal Nitch” http://www.nps.gov/lewi/planyourvisit/dismal.htm

Rishiri Island in the Autumn

Monday, October 18th, 2010

利尻昆布漁

今年は天候に恵まれず、昆布漁が少なかった。
7月中旬から始まった昆布漁。
海が凪ぎても、雨・霧。
晴れても時化る海。
晴天と凪の組み合わせが少なかった。
明日は昆布採りになるかも、で、朝3時頃から起きている漁師。
昆布かウニ漁かは、朝に決まる。
天気予報しながら、昆布の製品化で夜遅くまで作業。
夏は、体力と気合との勝負と、漁師が言っていた。

Collecting Konbu on RishiriHarvesting Konbu.   (Photo by E. Nishiya.)

Every autumn the strong winds and the ocean waves bring “Rishiri konbu” to the shores. The competition among the fishermen (and fisherwomen) is fierce.
You’ve got to gather better and more konbu than the others!
The hearty men and women of Rishiri go out to the ocean and to the beaches,
oblivious to the blustery fall weather.

Rishiri Island konbu

Rishiri Island konbu is reputed to be the best-tasting konbu in Japan!

Membership

Friday, January 1st, 2010

Through your memberships and/or donations you contribute to the building of ties between American and Japanese citizens who have an interest in history, education and people-to-people exchange. Recent membership activities have included historical reenactments, tours of historical sites and exchanges between scholars, historians and writers.

FOM, through the story of Ranald MacDonald, encourages American students of Japanese and Japanese learners of English to engage in the adventure of cultural exchange. Foreign language and cultural studies enrich the citizens of both countries and further mutual understanding between peoples.

FOM provides a window to learning about a unique trans-pacific heritage by conducting lectures and seminar programs, exhibits at public libraries and museums, and participation in ongoing efforts to interpret and preserve the history of the Pacific Northwest.

We invite you to join us! Establish your new annual membership, gift membership or donation in the appropriate category:

Family or Individual Membership [$15.00 annual]
International Family or Individual Membership [$20.00 annual]
Corporate Membership [$100.00 annual]

Please contact:

Friends of MacDonald
c/o Clatsop County Historical Society
P.O. Box 88
Astoria, OR 97103

Or

amm@friendsofmacdonald.com

MacDonald Appears in Recent Books

Tuesday, October 18th, 1994

MACDONALD APPEARS IN RECENT BOOKS

Robert Brown and the Vancouver Island Exploring Expedition.  Edited by John Hayman, Univ. of British Columbia Press, 1989.  204 pgs., $31.95

One of Ranald MacDonald’s ventures after he returned to land and the Canadian Northwest was his membership on the Vancouver island Exploring Expedition led by Robert Brown.  Brown’s journal of the exploration, a 4 1/2 month criss-cross of the island as far north as Comox, reports the discovery of the Leech River gold fields and of a coal seem on Browns River.

The book, Volume 8 of the Recollections of the Pioneers of British Columbia, includes numerous references to Ranald as well as a picture of him and Frederick Whymper, the expedition artist, coming spectacularly downriver on a raft.  Whymper’s illustrations of expedition activities and landmarks are used lavishly in the book.

Ranald’s own original journal of the expedition, scratched out over his weeks in the field, is in the Provincial Archives of British Columbia.  It supplements some of the official reporting done by Brown in his account.

The editor refers to MacDonald as “undoubtedly the most colorful and entertaining of the group … At forty, he was the oldest of the explorers, but his persistent high spirits made him, according to Brown, a popular member of the group”.  One rainy night, Brown quotes MacDonald as saying, ” ‘ … the devil was whipping his wife’ and, if we may judge from his frequent allusions to that gentleman, he appears to be on terms of considerable intimacy …”

In addition to giving readers as account of life on the island as the expedition found it in 1864, this book gives us a rare glimpse of Ranald as seen by his contemporaries.

An Ocean Between Us:  The Changing Relationship of Japan and the United States, Told in Four Stories from the Life of an American Town.  By Evelyn Iritani.  Wm. Morrow & Co.; 272 pgs., $23.00

Evelyn Iritani, daughter of a second-generation Japanese-American father and a born-and-reared-in-Japan mother, has covered Asian-related economic, political and cultural matters for the Seattle Post-Intelligencer since 1987.  Her book reflects both her birth and her vocation; it is a first-hand look at the impact of the Japanese presence in Port Angeles, Washington, and reaction to it.  Her “Four Stories” are about four situations involving Japan-U.S. relations, the first of them telling of the “drifters” enslaved by the Makah Indians (later) rescued through the efforts of the Hudson’s Bay Co. in 1834.  She expands on the bewhiskered and fanciful fiction that Ranald MacDonald shared school-days with the trio by stating that he “befriended the Japanese sailors and traded English lessons for schooling in Japanese.”  (In fact, of course, Ranald briefly attended John Ball’s school, held from November 1832~February 1833; the three Japanese youngsters were students of Cyrus Shepherd in the fall of 1834.)  Another reference to Ranald says he departed via “rowboat” from the whaler in which he had sailed to Japan; Ranald described his craft as “custom-built” for the captain, with sails and a mast.

However, Iritani’s personal insights and interviews with contemporaries make her book well worth reading.

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Gates Ajar — FALL 1994 – TV Video Popular in Japan

Tuesday, October 18th, 1994

Nagasaki TV Video Popular

The KTN TV/Nagasaki documentary celebrating the life of Ranald MacDonald was “well received” when it was broadcast to Japanese listeners this spring, reports FOM Chairman Mas Tomita.  The documentary, produced by the station, was filmed at Oregon, Washington, Hawaii and various Canadian sites as well as in Japan.  FOM hosted the film crew at dinners in Portland and Astoria.   M. Yamamoto, director of the film, discussed the project at South Nagasaki Rotary Club meeting.

[Mr. Yamamoto sends FOM members “best regards” and “thank you” for your help during the filming trip.]

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