追悼:富田虎男先生 ~~ 河元 由美子

「もしもし、富田です。お会いしたいのですが・・・」、どこか遠慮がちな電話を頂くと私はすぐ日時の約束をとりつけ、所沢の駅に出かけて行った。当時先生は所沢にお住まいで、私たちは駅近くの喫茶店で時間の許す限り話し込んだ。奥さまの介護で長時間家をあけられなかった先生の家庭の事情があったので、1時間半の所沢行きは私にとって負担ではなかったし、少しでも先生とお話出来る機会をもちたかったのである。話題は研究のこと、学会情報など学術的なことのほか、旅の話も多かった。話は何時もマクドナルドのことに及び、懸案になっていたマクドナルドの本発行の可能性について色々話し合うのだった。

話は1996年10月にさかのぼる。マクドナルドに関心のある何人かが立教大学富田研究室に集まり、アメリカのFOMとは別に「日本マクドナルドの会」を立ち上げた。会長は富田虎男氏、事務局は利尻の西谷榮治氏、会員は逢坂祐二、稲上護、石原千里(いしはらちさと)、宇城祐司(うしろゆうじ)、河元由美子の面々で、これに長崎在住の塩田元久、海外からはフレデリック・ショットが加わった。会の目的はマクドナルドに関するさらなる研究とマクドナルドの本刊行にあった。日本国内でマクドナルドに関する出版物と言えば『マクドナルド「日本回想記」インディアンの見た幕末の日本』(ウイリアム・ルイス、村上直次郎編、富田虎男訳、1979年初版、1993 年補訂版、刀水書房)のほか、まとまった出版物がなかった。そこで会員それぞれの知識を結集し、新しい資料を加えた独自のマクドナルド像を1冊の本にまとめ上げたいという希望を抱き、富田先生が全体を編集監修することで意見が一致した。それぞれが熱い思いを抱き、準備のための会合は数回に及んだ。日本を目指すためのハワイにおける準備活動、利尻上陸から長崎護送まで、長崎における取り調べや大悲庵での英語授業、プレブル号による引き渡し交渉、離日後のマクドナルドの動行など大まかな部分分けが行われ、会員が自分の得意とする分野を受け持ち、出来上がった原稿を富田先生に送った。

この作業だけでも多くの時間が費やされた。書きだすとつい自分の思惑が先にたち、時にはマクドナルドを離れた内容になってしまう。それを先生は根気よく一本の作品にするための努力をなされた。他人の原稿をむやみに書き直すことは出来ない。元の原稿のオリジナリティーを活かしながら全体の統一性を失わないように編集するのは並大抵のことではない。

原稿提出にも時間的なばらつきもあり結局作業は頓挫、富田先生はみなの原稿を預かったまま編集責任の苦渋を負われたのである。年月がたち会員達の高齢化による変化が見え始めた。先生自身もご自分の健康状態の悪化や奥さまの介護などで、自由にマクドナルドに懸ける時間には制約があった。私の所沢訪問はこうして始まった。その後先生は清瀬の老人ホームに居を移され、私は清瀬にも先生を訪ねた。この時には放射線の再治療などで大分体力が落ち長く話すにはかなりお疲れの様子であったが、それでもマクドナルドの原稿と資料はしっかりとそろえられ、しかるべき後継者に委譲する準備をされていた。私自身も体力、能力、時間などを考慮すると残念ながらこれ等の貴重な資料を預かることに責任が持てなかった。幸いこれらの原稿と資料は現在利尻の西谷氏に受け継がれ、北海道新聞社の協力のもと再編集作業が行われようとしている. 最後まで心を残された富田先生にマクドナルドの本が刊行され墓前にささげることが出きれば大変喜ばしいことである。~~ Yumiko Kawamoto

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