日本へ最初に行ったアメリカ人は誰?
Friday, April 30th, 2010アメリカ大陸に最初に足跡を残した日本人は誰?・・・という事は、アメリカ大陸に立った最初の日本人は誰?・・・という質問になる。 多くのお方は土佐藩(今の高知県)出身の中浜 万次郎こと、ジョン・万次郎と答えるであろう。 それは1841年の出来事であった。 しかし、史実はこれを正解としない。 実はその7年前の1834年、愛知県知多郡小野浦から三吉と呼ばれる三人の船乗り(音吉、岩吉、久吉)が今のワシントン州オリンピック半島の海岸、ケープ・アラバに漂着しているのである。
1832年11月3日、三吉たち14人を乗せた千石船、宝順丸は米や陶器を積み込み、目的 地江戸へ向かって伊勢湾の鳥羽を出港した。しかし、その途中遠州灘で暴風雨に遭い、宝順丸の舵が折れ航路コントロールが不可能となる。14ヶ月間と言う長期にわたり太平洋上を漂流の末、宝順丸はやがてケープ・アラバに漂着したのであった。当初14人居た乗り組み員は、途中、飢餓や壊血病で倒れ、生き残ったのは音吉、岩吉、久吉の三人だけになってしまった。三人はそこで捕鯨部族として知られていたマカー・インディアンに救助され今で言う“ホーム・ステイ”を4ヶ月余体験、健康を回復した。その後、三吉達は、コロンビア河向こうのバンクーバーに在る(現在の国立史跡公園)フォート・バンクーバーへ連れて来られ、そこで約13ヶ月間過ごし英語のレッスンを受け、やがて英国経由鎖国令の布かれている日本へ・・・の送還を試みられるのである。【この史実、特に音吉の歩んだ道はこの後意外な展開を遂げる。ご興味をお持ちのお方は角川文庫の三浦綾子著“海嶺”をご一読されたい。】
さて、アメリカへ来た最初の日本人は誰だったかご理解頂いたと思うので、次に逆の質問、所謂、(日本行きを目的とし)日本へ最初に行ったアメリカ人は誰?・・・と、問うて見たい。
1853年、時の徳川幕府に「開国!」を迫り黒船を率いて浦賀港へやってきたペリー提督・・・? 答えは「No!」 正解はラナルド・マクドナルド(当時24歳)。 更に、驚く無かれ、彼はオレゴニアンであった。ラナルドは、コロンビア河の河口、アストリアのフォート・ジョージで1824年2月3日、スコットランド人アーチボルド・マクドナルドを父に、コロンビア下流地帯のインディアン、チヌーク族の大酋長コム・コムリの次女コアール・クソアを母として産声を上げた。ラナルドは、少年時代にフォート・バンクーバーに滞在していた日本人、三吉達の瞳、髪の毛、皮膚の色等、インディアンに似ているという話を聞き、(別な説は、少年ラナルドが三吉達を見た・・・とか、三吉達と短期間ではあったが交流の機会があった・・・とも言われているが、その史実は疑わしい)又、インディアン部族の長老間で、先祖達がアジアからアラスカを経てアメリカ大陸へやってきたという言い伝えを耳にした事もあった事から、彼らインディアンと日本人の先祖は同じかもしれない・・・と、少年ラナルドは日本、日本人に対する異常なほどの興味と憧れを抱き始めた。
1847年暮、23歳に成長したラナルドはハワイでアメリカの捕鯨船プリマス号の平船員となり、捕鯨船が世界中から集まっていた日本近海への出港の第一関門をクリアした。その後数ヶ月間、類の無いほどの大漁獲を収めたプリマス号での捕鯨の仕事に汗を流したラナルドは、報酬の代わりに小船と食料、水を事前約束通りエドワード船長から譲り受け、いよいよ単身日本上陸を目指すのであった。 それは1848年、ラナルドが満24歳の時であった。
彼は、鎖国令が布かれている日本に上陸するのは、命がけである事は十分承知していた。少しでもその危険性を和らげる為、ラナルドは万国共通の“人情”に訴える作戦に出た。 北海道利尻島の海辺の村落、野塚に近付いた海上で遭難を偽装したのだ。その作戦は見事功を奏し、案の定、海岸に居たアイヌ達が2艘の小船で救助に来てくれた。
こうして、オレゴニアンのラナルド・マクドナルドは鎖国中の日本への入国を果たした。だが、オランダ人と中国人、それも長崎の出島以外では交易を認めていなかった徳川幕府としては、ラナルドを密入国者として捕らえ約3ヶ月間掛け、船で身柄を長崎へ送り、そこの大悲庵と称する座敷牢に軟禁した。しかし、ラナルドの日本人や日本文化に対する尊敬の念と日本語を学ぼうとする誠意溢れる人柄が役人に認められ、出島のオランダ語専門通詞達14人が、大悲庵に通うようになった。そこで通詞達は彼に日本語を教え、彼から英語を学ぶ・・・という日常が始まったのだ。これは、ラナルドがアメリカへ強制送還されるまでの約7ヶ月間続いた。
これが日本での英語教育のはじまり・・・であり、現在ではオレゴン出身のラナルド・マクドナルドが“日本で最初の英語教師”として位置付けされている。 更に、その5年後、1853年にペリー提督が黒船を率いて徳川幕府に開国を迫る交渉に来る訳だが、その時日本側の首席通訳の大任を果たした森山 栄之助は、マクドナルドの大悲庵に通った14人の通詞の一人であった。
【 このマクドナルドに関する史実は、近年日本の中学及び高校の英語教科書でも教材の一部として取り上げられているばかりか、日・英両語で幾つかの本が出版されている。 その中で最も代表的な日本語の本は、文春文庫の吉村 昭著“海の祭礼”であろう。】
ここにラナルドが日本(大悲庵)で密かに纏めた和英語彙集の中から、幾つかを紹介する。ここで留意しなくてはならないのは、マクドナルドは、彼が耳にした日本語を英語の言葉の発音に置き換えて彼なりにメモした事である。所謂、ローマ字発音にこだわると、マクドナルドが意図した発音と異なるケースが多々あるので気を付けなければならない。 例えば、meme であるが、ローマ字発音ではメメとなる。しかし、マクドナルドが意図した発音はミミ〔耳〕なのである。英語でme〔私〕という単語があるが、マクドナルドが聞いた日本語はミミ、即ちme ミーを二度繰り返したmeme ミーミー(耳) であった。Keno も同様に、ローマ字発音ではヶノであるが、マクドナルドが聴いた言葉は、キノ、すなわちキノー(昨日)だったのである。 基本的に、eの発音は、エ ではなく英語ではイー。 アルファベットは A・B・C・D・E・F・・・と続くが、これは、エイ・ビー・シー・ディー・イー・エフ・・・と、発音するのはご存知の通り。
catana – 刀: sword
meme – 耳: ear
oy – 甥: nephew
nom – 飲む: drink
omereto – おめでとう: congratulations
beging – 美人: beautiful lady
sheo – 塩: salt
keno – きのう: yesterday
emoto – 妹: younger sister
sinara – さいなら: good bye
rogin – 老人: old man
eye-nose – アイヌ: Ainu
oboyewarii – 覚え悪りい: forgetful (bad at remembering)
この他にも簡単な日本語(長崎弁)会話を含んだマクドナルド自身による手書きの語彙集の現物は、カナダのヴィクトリアB.C.図書館に保管されている。
マクドナルド友の会* 会長 谷田部 勝
*マクドナルド友の会は、より多くの方々にラナルド・マクドナルドに関する素晴らしい史実を知ってもらおうとの主旨から、今から21年前、当時ポートランド商工会理事であり、エプソン・ポートランド社社長であった故冨田 正勝氏等が中心となり、クラッツァップ郡歴史協会の下部組織として創設されたものである。