日本で最初の英語教師 Ranald MacDonald
Thursday, October 14th, 2010ラナルド・マクドナルドは1824年、毛皮交易商のスコットランド人の父と、アメリカ先住民の母との間に生まれる。出身はアメリカオレゴン州アストリア。幼いころから日本に対して強い興味があり日本へ渡る。今では、日本で最初のネイティブ英語教師として知られている。
1848年、当時24歳のマクドナルドは遭難を偽装し当時鎖国中であった日本への入国を果たし、北海道の焼尻島へ上陸した後、利尻島へ上陸した。この利尻 島でアイヌ人とともに数日間暮らした後、密入国の疑いで長崎に送られ拘禁されたが、彼の誠実な人柄と高い教養が認められ、徳川幕府から、西山郷に英語教室 開設を許可されている。ここで、アメリカへ送還されるまでの半年間の間、出島で働く14人のオランダ通詞たちに英語を教えたとされている。マクドナルドが 来日する以前は、オランダ語を経由せず直接的に英語を教える講師はいなかったので、彼が初の英語教師となった。教え子の中には、ペリーとの交渉で活躍したことで有名な森山栄之助などがいる。またマクドナルド自身も日本への関心から日本語を学び、日本初の英日単語帳である『英語対照語彙集』を残した。その現物が、ビクトリアのB.C.州立図書館内に保存されている。
その後、1849年、マクドナルドはアメリカへ戻ったが、日本での日本人のマクドナルドへの扱いは丁寧であり、マクドナルドもまた、死ぬまで日本に好意的 だったという。帰国後は日本の情報をいち早くアメリカへ伝えた。アメリカ議会に「日本社会は法治国家であり、日本人は礼節正しく民度も高い」と、日本が未 開社会ではなく高度な文明社会であることを伝え、のちのアメリカの対日政策の方針に少なからず影響を与えた。日本では主に英語教師としてだけ有名である が、アメリカの歴史ではかなりの重要性を占める人物として、研究や紹介の書籍が多く公刊されている。中でも日本滞在中に日本について鋭く観察した事を元に して書いた『日本回想記』は有名である。
マクドナルドは1894年70歳で人生を終えるが、病床で「Soinara(=さようなら)、my dear、Soinara」と傍にいる姪に呟いて息絶えたと言われており、彼の墓石には「SAYONARA」 の文字が刻まれている。マクドナルドの生涯を通し、それほど日本への好意と関心があったようで、日本では利尻島の上陸地点と長崎市内諏訪神社の近くにマク ドナルドの記念碑があり、現在も親しまれている。又、アストリア市内の史跡公園には、日英両語で「マクドナルド生誕の地」と記された記念碑が建てられてい る。
Thank you – State of Oregon Japan Representative Office.