富田虎男先生から受け継ぐマクドナルド~~利尻島 西谷榮治

「マクドナルド上陸記念碑の建立を祝ってラナルド・マクドナルド利尻島上陸記念碑の建立に際し、私ども日本マクドナルド友の会から、心からお祝いを申し上げます。野塚岬の丘の上に立つと、はるか150年も昔、マクドナルドが草履をはき、二人のアイヌに手を引かれて、おぼつかない足どりで浜辺から上がってくる姿が眼に浮かびます。厳しい鎖国令下にある日本に潜入するため、慎重で大胆な冒険家マクドナルドが選んだ戦略は偽装漂流と、島の人びとの温情にすがることでありました。それは美事に成功し、野塚の番小屋では、タンガロと誤記された番人多治郎との暖かい友情まで生まれました。同じ平地に立って一対一で対等に向き合えば、いつの時代でも、どこででも、暖かい人間同士の交流が成立するのだ、という事をマクドナルドは身をもって示してくれたのです。10年ばかり前に、アメリカ側にフレンズ・オブ・マクドナルドが結成され、アストリアの丘の中腹にある生誕地に、マクドナルド顕彰碑が建立されました。ここ野塚の上陸記念碑とアストリアの顕彰碑は、太平洋を挟んではるかに向き合い、初めは言葉も分からない人間同士が、相互に相手を信頼し合えば、深い友情の絆で結ばれうるという事を、訪れる人びとに語り続ける事でありましょう。ひと言つけ加えたいと思います。それは、この記念碑の建立を誰にもまして悦んで下さるはずの二人の方を、最近相ついで失ってしまった事です。一人はフレンズ・オブ・マクドナルドの会長冨田正勝氏であり、もう一人は日本マクドナルド友の会の発展に尽くされた高橋正樹氏であります。お二人の御冥福を祈りたいと思います。1996年10月23日 日本マクドナルド友の会 富田虎男」

今から20年前の1996年10月23日、利尻島野塚岬に建立されたマクドナルド顕彰碑・吉村昭文学碑除幕式の立教大学名誉教授富田虎男先生の祝文である。

マクドナルドの利尻島上陸に手を引いた二人のアイヌ人、上陸してから芽生えた番人多治郎との暖かい友情。マクドナルドの生誕地米国オレゴン州アストリアの丘の中腹と日本国利尻島野塚とに太平洋を挟んで向き合う二つの記念碑。富田虎男先生の祝文を今一度読み直した私は、マクドナルドと島人たちの出会いを過去、現代において建てられた記念碑は物として使うのではなく、人は心と心、物は物語として膨らませて現代に繋げ、未来の交流を創って行く事の大切さ強く感じた。このことから、アストリアに建つ顕彰碑の上の五角形はマクドナルドが生まれたアストリア、捕鯨船から離れて上陸した焼尻島、初めて人と出会った利尻島、オランダ通詞たちに英語を教えた長崎、墓のあるトロダの五ヶ所を表していることになると思った。

病気療養中の富田虎男先生は2016年6月11日の未明、87歳で永眠された。家族葬にて6月16日午後6時から通夜、翌17日午前11時半から告別式が埼玉県所沢市の所沢市斎場で行われた。葬儀会場で富田虎男先生の遺影写真を見ながら様々に思いが蘇ってきた。

富田虎男先生がマクドナルドに出会ったのは1969年の劇団文化座「草の根の志士たち」だったという。公演で「長崎にはアメリカのインディアンがいて、アメリカでは一番偉いのは人民、その次が大統領」という台詞から、マクドナルドの事を知った富田虎男先生は、マクドナルドに縁のある米国・日本各地を訪れ、マクドナルドの日本回想記に書かれている事柄を確認しながらマクドナルドを追い続けた。その成果を1979年に富田虎男訳訂『マクドナルド「日本回想記」-インディアンの見た幕末の日本』として発刊した。その後、1981年に補訂版、2012年に再訂版を出している。発刊後に得た新しい資料等を基にして書き換えてきた。再訂版には「鎖国の日本に潜入した命知らずの大胆不敵な冒険家というラナルドのイメージは消え失せ、大胆ではあるが用意周到な冒険家というイメージが私の中に浮かんできた」と書いている。

富田虎男先生のマクドナルド研究の視点から「日米民間交流の先駆者ラナルド・マクドナルド-鯨が開いた鎖国の扉-」として、マクドナルドの調査研究とまとめを引き継ぎたい。~ Eiji Nishiya, Rishiri Isl., FOM Japan

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