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Rishiri Report – March 2018

Thursday, March 15th, 2018

Alice and I visited Japan in December last year.  On the 11th we flew from Narita in Tokyo to the New Chitose Airport near Sapporo; the next day – Dec. 12th – we flew from Okadama Airport in Sapporo to Rishiri Airport … under the provision that, IF the weather around Rishiri Airport was not suitable for the plane to land, the plane would turn around and return to Okadama Airport.  Fortunately, when we arrived at Rishiri Airport, the weather had turned favorable for landing.  Our understanding is that there had been a blizzard prior to our plane’s arrival, and up until the last several minutes landing was not a guarantee.

We were met at the airport by Rev. Kyouji Furukawa, Chairman of the “MacDonald Scholarship Fund Support Group”, Mr. Eiji Nishiya, Deputy Manager of MSFSG, Mr. Motomura, Principal of Rishiri High School (who officially invited us to come to Rishiri) and Ms. Nakanishi and Ms. Suzuki, teachers and two of the familiar faces from Rishiri High School, who had each chaperoned students to America in recent years.

Snowy Hokkaido … in particular the “real middle-of-winter on Rishiri Island” – for several years now Alice and I have discussed going to see the deep snow on Hokkaido.  Out of nowhere, a request came from Rishiri High School Principal Motomura for me to go and give a lecture there in December.  It did not take any time at all for us to decide and to respond positively for going.  The Hokkaido Board of Education designated Rishiri High School to be an “Improving English Language Education” research school.  Also, for the past 5 years Rishiri High School has sent students to America as part of their “short-term overseas study program” to encourage learning English.  The lectures relating to the project at the high school and a review of the project were to be held at Rishiri High School on December 15th. It was Principal Motomura’s suggestion that we try to arrive a few days in advance since ‘bad weather’ could jeopardize our schedule – there is only ONE flight per day from Okadama in Sapporo to Rishiri (and vice versa) – so we arrived on the 12th.

As we were driven from the airport along the snowy road to where we were to stay – the Pension Green Wind – we saw frequent changes to the weather, and we looked at each other and nodded our heads, agreeing that Principal Motomura’s suggestion to try to get there early had been “a good one”.  We were greeted by Miyazaki’s “Totoro” on the way to the high school – “Drive Carefully on Rishiri !”

The lecture and presentation was held in the Rishiri High School Auditorium; the event started out with an official greeting by Principal Motomura in English. [Principal Motomura is a former English teacher – and his English was very good.]  His greetings were followed by a report entitled “Studying in Astoria (Oregon) and Spokane (Washington)” which was presented by two Rishiri High School Juniors, Jin Hiranuma and Mako Sato.  Jin and Mako came to America in the autumn of 2017 and were the 5th pair of students to come to Astoria/Spokane in the last 5 years.  They took turns giving their presentation, speaking about their valuable experiences in English.  Next the Chairman of Friends of MacDonald – me – presented the “real” Ranald MacDonald to the student body (as opposed to the Ronald McDonald, the mascot of hamburger fame).  I introduced MacDonald and his contributions by Power Point in English.  After that, based on my “50 plus years of life in America”, I gave “life advice” to the Rishiri High School students in Japanese.  My message was, “It’s good to hope and dream of the future, but the most important thing is to concentrate and work hard on what’s in front of you right now!”  That message has been my personal mantra/motto during my life in America.

Alice followed with her own message in English – “There is a big, wide world out there – – – get out of your comfort zone and follow the example of Ranald MacDonald, the Adventurer!”

The final lecture was presented by Dr. Hisashi Naito, Professor of Business Management at Hokkai Gakuen University, entitled “Look, Think and Act Globally” and explained the arrival of a new ”Glocal World” in fluent English [which he stressed that he had studied and mastered without going abroad.]

Local dignitaries who attended the presentation included Rev. Kyouji Furukawa, Mr. Ken’ichi Kurokawa, Mr. Eiji Nishiya of Ranald MacDonald Scholarship Fund Support Group and Mr. Kazuki Kosugi, Superintendent of the Rishiri School Dist. plus representatives from Hokkaido Department of Education, Wakkanai High School, Toyotomi High School, Edasachi High School, Rebun High School, Rishiri Junior High School, Senposhi Grade School, Kutsugata Grade School and some parents.  It was a well-attended event.

私と家内、アリスは昨年12月初旬に訪日、11日に成田空港から新千歳空港へ飛び、翌12日に北海道札幌市内の丘珠(おかだま)空港から利尻島の利尻空港へと飛び立った。それも「若し、利尻空港周辺の天候が着陸に不適当な場合は丘珠空港へ舞い戻る可能性有り」という事を予め御了承の上でご搭乗を・・・という条件付きの離陸であった。幸い到着時にはその直前まで吹雪いていた・・・らしい天候が好転、無事着出来た!

マクドナルド奨学基金支援の会の古川恭司会長や同会事務局次長の西谷榮治さん、それに今回お招き下さった利尻高校の元村治郎校長、近年利尻高校からの米国短期留学生を引率してアメリカへ来られた“顔馴染み”の中西、鈴木両教諭の温かい歓迎を受けた。

雪の北海道、特にラナルド・マクドナルドが1848年に上陸した利尻島の“真冬”は何時か是非体験してみたいと兼ねがね家内と話して居た矢先、「利尻高校での講演を・・・」という打診が舞い込んだのだった。よって私達の『行きます!やります!』という決断・回答に時間を要さなかった。それは、利尻高校が北海道教育委員会より「英語力向上事業研究指定校」に選抜され、更に過去5年間、アメリカ短期留学プログラムを実施してきた事もあり、同校に於いて「高等学校英語力向上事業」講演会・成果発表会が開催される事となった為だった。実際、そのイベント開催日は12月15日であったが、札幌から利尻に日に一便しか飛ばない飛行機が天候不順により飛べない又は着陸不可能となった場合等を鑑み、「2~3日間余裕を持ってご来島を・・・」と元村校長からご提言頂いていたので12日着島を計画、順調に着島出来たのだった。空港から宿泊先ペンション“群林風”への雪道を走る車の中から頻繁に変化する利尻の気象を観察しながら「元村校長のご提言は適当であった!」と頷いていた私達であった。

当日の講演会・成果発表会は、元英語教師であった元村校長が流ちょうな英語で先ず挨拶、続いてマクドナルド奨学資金支援の会により第5回米国短期留学生として米国アストリア市(オレゴン州)とスポケン市(ワシントン州)へ派遣された利尻高校2年生の平沼 迅君と佐藤真恋さんが交互に留学研修報告を英語で行った。次に私は世界中で知られているハンバーガーチェーンの道化者、ロナルド・マクドナルドと異なる「Real MacDonald」と題して、ラナルド・マクドナルドの紹介と彼の功績をパワーポイントを使って英語で紹介、続いて、在米50余年の体験に基ずく・・・利尻高校生達へのアドバイス的メッセージとして、「将来の夢も希望も良いが、最も大事なのは“現在”に熱中・目の前の事に集中する事!という自己の座右の銘を日本語で説き、家内アリスが「世界は広い、時には、マクドナルドの冒険心を見習い、自分のComfort Zoneから脱出を!」と英語でフォローした。講演の最後は、北海学園大学経営学部教授の内藤 永(ひさし)博士が「グローバルに見て、考えて、行動しよう」と題して、新たな“グローカル時代”到来の説明と生徒達への指針を「日本国内で学び、マスターした!」という見事な英語で解説、進言した。

当日、利尻高校講堂を埋めたのは同校全生徒以外にも、来賓としてご臨席なされたラナルド・マクドナルド奨学基金支援の会の古川恭司会長、黒川健一事務局長、西谷榮治事務局次長、利尻町教育委員会の小杉和樹教育長等であった。その他にも、北海道教育庁教育支援課高等学校指導班指導主事の方々や仙法志小学校の船木校長や沓形小学校の高橋教頭を含む、稚内高校、豊富高校、枝幸高校、礼文高校、利尻町立利尻中学校等諸校の先生方、及びご父兄の方たちであり、盛況であった。

“Japan’s Diplomatic Relations Began with Drifters”

Friday, September 29th, 2017

A symposium entitled “Japan’s Diplomatic Relations Began with Drifters was held at Yui no Mori Arakawa in Tokyo on July 17, 2017. Panelists included Mr. Frederik Schodt, author of ‘Native American in the Land of the Shogun’, and Tokyo- based author/scholar Ms. Sen Ishida; the moderator was author Natsuo Sekikawa, board member of the Japan Writers’ Association. Page 3 is a write-up of the symposium from the ‘Weekly Dokushojin’ publication; Mrs. Yumiko Kawamoto’s report on the symposium can be found below. The following is a flyer that was circulated for this event:

日本文藝家協会著作権管理部    各都市巡回文藝イベント  第10 回      東京

シンポジウム

漂流民から始まった対外関係

— 吉村昭を再読する―

鎖国下の日本に、外国語を習得しようと、また、翻訳を試みようとした人々がいました。辞書も無く手探りで学ぶ困   難さ、そして異文化への強い憧れと知識欲。吉村作品の「海の祭礼」「冬の鷹」に描かれた時代と人を、吉村昭記念文  学館があるゆいの森あらかわにて語り合います。[シンポジウムは日本語で行います]

パネリスト      フレデリック・ショット

(日本マンガおよび漂流民研究者・同時通訳者)

石田    千(作家)

進 行      関川夏央(作家)

日 時 2017年 7月17日(祝日・海の日) 14時~16時

会 場 ゆいの森あらかわ         1 階ゆいの森ホール     東京都荒川区荒川 2‐50‐1

入場料無   料  (要予約)

* 終了後、作家との茶話会を開催いたします。会費:500 円(要予約)

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History’s Accidental “Ambassadors” ~~ report by Yumiko Kawamoto

「漂流民から始まった対外関係」参加レポート    河元 由美子

日本文芸協会主催のシンポジウム「漂流民から始まった対外関係―吉村昭を再読する―」が 2017 年 7 月

17 日(月)14:00-16:00、ゆいの森あらかわ(東京都荒川区荒川 2-

50-1)1 階ホールで盛大に行われた。文芸協会の web 上の「お知らせ」には「鎖国下の日本に、外国語を習得しようと、また、翻訳を試みようとした人がいました。手探りで学ぶ困難さ、そして異文化への強い憧れと知識欲。吉村昭作品の『海の祭礼』『冬の鷹』に描かれた時代と人を、吉村記念文学館があるゆいの森あらかわで語り合います。(シンポジウムは日本語で行います)」という文面がある。一般参加者にはわかりやすい説明文である。

参加申し込みはあっという間に定員の 120 名を越し、主催者は定員外で参加不可の人たちへの対応に苦労したそうである。

吉村昭は海外でも翻訳書が多くよく読まれている人気作家で、その緻密な取材力には定評がある。現地取材と文献による裏付けがしっかりしており、しばしば研究者からも参考にされているが、彼自身の言葉によるとどうしても事実と事実がつながらない場合は想像力でその狭間を補うと言っている。そのフィクションの部分と事実が大変よくつながっているので感心するのだが、やはり研究者は自分で「事実」を確認しなければならない。

このシンポジウムの構成人員は 3 人で、モデレーターの関川夏央氏(作家)、石田千氏(作家)、そして我らがレデリック・ショット氏である。進行役の関川氏が『海の祭礼』に従ってマクドナルドの生い立ちから日本訪問、帰国後の動静、晩年までを説明、話の山になる部分を石田氏が朗読、彼女の落ち着いた明快な声が耳に快い。冒頭の部分(マクドナルドの利尻上陸の部分、アイヌの人々によって助けられ、保護される場面)、次いでマクドナルドの回想に入り、プリマス号から離れ、一人焼尻島に上陸する場面(トドの群れにピストルを発射)、長崎到着の場面(長崎奉行の取り調べ、踏み絵をさせられる、森山栄之助との出会い)、座敷牢での英語教授(マクドナルドの日本語単語の収集、通詞たちが蘭英辞書の発音を確かめる、マクドナルドの温和な性格が日本人に好感を与える、熱心な生徒たち、日本語単語帳に長崎方言が混じる)、森山の晩年(疲れ切って健康を害し、全盛期の勢いがなくなり、寂しい晩年だった)、などが石田氏の朗読場面だったように思う。その合間に関川氏とショット氏の軽妙なやり取りが交差する。ショット氏の流暢な日本語に聴衆はすっかり魅了され、ときどきその当意即妙な答えに会場が沸く。マクドナルドといえば必ず登場するショット氏である。語り慣れているとは言え、いつもながらその知識の深さと完ぺきな表現力には感心させられる。「もし踏み絵を強要されたら?」とか、「深くお辞儀をするのに抵抗があるか」とか、「クジラを食べたいか」とか時には本題を離れた質問に笑い声が起こった。脱線も関川氏の作戦か、和やかで楽しい 2 時間があっという間に過ぎた。質疑応答は会場を開ける時間が決まっているのでなかった。その代わりシンポのあと、30 分ほどパネリストと参加者の交流ティータイムが用意された。私はこの会に出なかったので様子はわからないが、文芸社の小俣さんが撮った写真を見るとリラックスしたよい雰囲気が伝わってくる。会場に来た 120 人の人はすっかりマクドナルドの存在が頭に焼き付けられたことだろう。関川氏もよく事前勉強をされ、会の流れを巧みに操縦したと思う。会場整理の文芸社社員もよく効率よく働いていた。大成功だった。

吉村昭は荒川区東日暮里の生まれで長く荒川区に住んでいた。吉村昭文学記念館が荒川区に新しく創設された

「ゆいの森あらかわ」の 2 階に「吉村昭コーナー」として収まった。

吉村の作品、彼の書斎にあった書籍類、膨大な執筆資料、原稿などが集められ、彼の書斎まで復元され、愛用のペンや机などがそのまま置かれている。吉村ファンにとってはまことにありがたい場所である。

シンポの行事が終わり、関係者は吉村氏行きつけの中華料理店に移動した。関川、ショット、文芸協会のスタッフ、講談社と新潮社のもと編集員、ともに吉村昭担当のベテラン編集者、私と友人の 12,3 人が丸いテーブルを囲み乾杯、そして次々運ばれてくる料理を食べながら歓談。前夜のホテルで冷房のスイッチが見つからず地獄の一夜を過ごしたショットさんに同情が集まる。そう、日本列島どこでもまるで焦熱地獄のような気温だったのだ。7 月 14 日に羽田に着いたショット氏はすぐ長崎に飛び、森山栄之助顕彰碑を見に行った。長崎のホテルには小濱先生、前田氏が表敬訪問、翌日は前田氏の案内で松の森神社参道にある森山顕彰碑とマク

ドナルド顕彰碑をカメラに収める。東京に引き返し取材やシンポの打合せで休みなしの強行軍、それもひどい暑さと闘いながら・・、涼しいサンフランシスコからの賓客にはまことに過酷な滞在だったことに深く同情する。

食卓での話題はなぜMacDonald なのか、McDonald との違いは何かで始まった。ショット氏の答えは

「どうでもいい」、これに満足しない面々はさらに追及、私に意見がもとめられたので、私も「どうでもい い」と。山崎をヤマザキ、ヤマサキふた通りの読み方がある。本人がヤマサキだといえばみなそれを尊重してヤマサキさんと呼ぶだろう。斎藤にも斎もあれば斉もある。要するに名前は本人がどう読むか、どう書くかで決まるのではないか。「座敷牢」は英語で何というかの質問に、座敷ではない、あれは「牢」なのだという答

え、ご名答。座敷とは畳の敷いてある部屋という意味でしかも 3 畳ぐらいの広さしかない。健康でアウトドア派の若者にはとてもつらい環境だ。なるほど座敷と牢のどちらがキーワードか、考えるチャンスをもらった。蛇足ながらマクドナルドが別れのあいさつで「ソイナラ」と言ったという発言があった。SOINARA では なく SIONARA の読み違え書き違えではないか。SIO なら   サイオと読める。今の日本人はヘボン式で読む 習慣があるが、 SI をサイとなぜ読まないのか、サイオナラならより「さようなら」(Good bye)に近づく

ではないか。

A Very Special Gathering

Sunday, May 28th, 2017

We knew it was going to be a special meeting as soon as we got off the elevator on the second floor of the Heritage Museum in Astoria – we were not ‘late’, but we found the hallway filled with FOM members and guests chatting and patiently waiting to enter the gallery area of the old, Circa 1904 Astoria City Hall.  We were thrilled to see so many familiar faces – and a number of new faces as well. We – all of the Friends of MacDonald members – are pleased and gratified that our membership stays strong.  It is often difficult for organizations such as ours to remain healthy over the years; that said, we feel that our success stems from the allure Ranald MacDonald himself. As far as historical figures go, I think I speak for all of our members when I say that Ranald is definitely one of the more interesting characters to spring out of the Pacific Northwest, if not America itself.

We began our meeting by welcoming charter member and former FOM Chairman Prof. Stephan Kohl, former chairman Jim Mockford, and author of ‘Ranald MacDonald: Pacific Rim Adventurer’, JoAnn Roe, who, at age 93, drove BY HERSELF to Astoria from Bellingham, WA to be with us at this year’s luncheon. We were also honored to have Consul General and Mrs. Uchiyama of the Japan Consular Office in Portland, Chinook Council Vice Chair Sam Robinson and his better half Mildred (who entertained us with Chinook drums and songs of gratitude to the Creator who watches over us all), and local Chinook artist Charles Funk and his wife Mary. Members of Clan Donald were also in attendance, as well as visitors from Montana and Japan. Jim Mockford reminded us of our history as a Committee of the Clatsop County Historical Society, and – with occasional corroboration from Professor Kohl – told the story of the early days of FOM when Bruce Berney of Astoria and the late Mas Tomita of Epson Portland (among others) work against all odds to establish FOM. ~ Chairman Mas Yatabe

 

 

 

RISHIRI REPORT

Tuesday, February 28th, 2017

The following reports (in Japanese) were written by two students from Rishiri High School, Yuto Shima and Haruno Tsutsumi,  and their foreign language teacher, Junichiro Miyamoto, after completing their visitation to Spokane and Toroda, Washington and Portland and Astoria, Oregon, spending 5 days in each State.  They visited the grave site of Ranald MacDonald near Toroda, Washington and attended classes at Colville High School in Republic, Washington with other local students. They were guided by a long- time member of FOM and the author of the book “Unsung Hero”, Atsumi Tsukimori McCauley of Spokane, WA.  Next the three flew to Portland where they were joined by Rishiri H.S. Principle, Mr. Tsubokawa, and the PTA President, Mr. Yoshida. The five were guided by FOM Chairman Mas Yatabe to meet with Council General of Japan in Portland, Kojiro Uchiyama, who gave the two students’ self-introduction speeches in English a high grade of “A” as if they were his students, which made Principal Tsubokawa, Foreign Language teacher, Mr. Miyamoto and Mr. Yoshida, the PTA President very happy.   The five from Rishiri were driven by Chairman Yatabe to Astoria where they visited the birth place monument of Ranald MacDonald and later they were taken to Astoria High School where the students met host families and the Principle of Astoria High School, Mr. Lynn Jackson.  Although their stays in Washington and Oregon were short, they, in particular the students, learned a great deal about the diverse nature of the people and the culture of US, and the independence of US students compared their Japanese counterparts.  Both students were very appreciative of the host students’ and their families’ kindness in Republic, Washington and in Astoria. Oregon.  

マクドナルド短期留学研修を終えて 北海道利尻高等学校 

2 年 A 組志摩祐斗 

私は今回のアメリカ短期留学研修を通して、沢山の新しい経験をすることができました。私は留学に行く前は、英語がどれくらい通じるのかということや治安面について不安に思っていました。しかし、実際に行ってみると現地の方々が温かく迎えてくれたり、ワシントン州の大自然に囲まれた町やオレゴン州の洗練された町で生活することができて、とても幸せでした。

私が感じた日本とアメリカの違いは、アメリカ人は日本人より自立しているということです。アメリカの高校生の多くは免許が16歳で取得できるため、自分で車を運転して登下校をしていました。その  他にもホームステイ先の5歳の子が自分の部屋を持っていて夜は1人で寝ていました。このように現地の人は日本人よりも自立していて、その分高校生になると自分で責任を取らないといけないことも増え  るので、日本人よりも大変になるのではないかと考えました。

また現地の高校を訪問してみて沢山の文化の違いを感じました。握手を求められたり、仲の良い友達同士でハグしていたり、授業中にご飯を食べている生徒もいました。また私が理解できなかった英語を、日本語を習っている生徒が頑張って訳してくれたり、利尻について質問してくれたりと、とても責任感が強くて積極的な人が多く、現地の高校生から学ぶことがたくさんありました。

ホームステイ先では多くのおもてなしや気遣いをしていただき ました。おやすみやおはようなどの日本語を覚えて使ってくれたり、お土産の箸を使ってくれたりしました。また、私が卓球部だと言うと、卓球場に連れて行ってくれました。このようにアメリカ人はサービス精神が日本人よりも多く、ホームステイではとても有意義な時間を過ごすことができました。

私の留学の最大のテーマはコミュニケーション能力の向上でした。現地の方々は私が利尻や家族について紹介すると、大きなリアクションを取ってくれたり、会うと笑顔で挨拶をしてポジティブな言葉をたくさんかけてくれたりしました。私は現地の方々と話してみて、コミュニケーションを取ることの楽しさを改めて実感するとともに、沢山の元気をもらいました。

今回の短期留学では日本の良さを再確認することもできました。アメリカでは空港の椅子が食べ物で汚れていたり教室の  床に本がちらばっていたりしました。その他にもゴミの分別がなかったりコンビニが近くになかったりと、日本ではあまり考えられないようなことが普通に行われていました。このようなことを通して清潔で環境が良く、安全な日本はやはり良いところだと感じました。

今回もラナルド・マクドナルド短期留学ということで、ラナルド・マクドナルドが育ったトロダという町に行きました。トロダは建物が少なく自然がたくさんあり、利尻よりも田舎な町でした。彼はこの田舎町で育ったからこそ、後に日本に漂流を装ってまで行く冒険心や勇気が生まれたのではないかと私は考えました。これからは今回の留学を機により一層英語の勉強に力を入れるとともに、魅力的なアメリカでの経験をたくさんの人に伝えられるよう努力していきます。

 

マクドナルド短期留学研修を終えて北海道利尻高等学校 2 年 A 組堤春乃

中学生の頃からの目標だったこの短期留学。事前研修が進むにつれ、アメリカに行くという実感が湧いてきました。これまではただただ楽し みなことしか考えていませんでしたが、期待と同時に不安な気持ちにもなってしまいました。しかしいざ飛行機に乗ってアメリカの土地に足を踏み入れてみると、不思議なことに不安が一瞬で払拭されました。「たくさん学びたい。たくさん楽しみたい。いい思い出を作りたい。」あの頃からずっと憧れていたことがいまこの瞬間に叶っているんだ、と思うと自然と強い自分になれました。振り返ると、私の夢の時間はあっという間に終わってしまいました。

日本からテレビやインターネットで見るアメリカと、実際にその土地にいって実感するアメリカの文化は大きく違いました。特にカルチャーショックを受けたのは現地の高校です。私たちと同じ年代の子がどのようなライフスタイルなのかを一番間近で感じられる良い機会でした。しかしもう何もかも違いすぎて驚くことばかりでした。『日本の高校生』と『アメリカの高校生』の違い、授業体制の違い、部活の仕組みの違い。知ること聞くこと全てが新鮮でした。また、現地の高校生は私たちにたくさんの興味を示してくれました。アメリカにはない制服、日本の文房具、歴史や言語などについて質問をしてくれました。その中でもとくに印象的であったやりとりは、『日本語』についてです。日本語に興味を持

ってくれた子に、「日本人は文を書くときにひらがな・カタカナ・漢字の 3 つを使うんだよ」と私の名前を使いながらそれぞれ紹介しました。するとその子は「私の名前を漢字で書いて」と要求してきました。当然書くことはできなかったのですが、私たちが普段当たり前と思っていることがそうではないことを身をもって感じられた出来事でした。文化・言語の違い、人との出会いや新たな発見をできたからこそ、心から楽しむことができたのだと思います。

ホームステイでは今回の研修の中で最も濃い時間を過ごすことができました。正直、言葉の壁はとても大きな障害でした。もちろん耳に入ってくる言葉は全て英語。それもネイティヴの人たちなので初めは聞き取ることが非常に困難でした。自分がダメダメで、自信がなくなってしまうこともありました。しかしそんな私にも「心配しなくて大丈夫だよ」「もっとゆっくり話そう」などと気を遣ってくれる、

優しい家族の下でホームステイできたことをとても嬉しく思います。テレビで放送されているアメリカンフットボールの試合を全員で応援したり、ハロウィンのためにジャックオランタンを作ったり  と、初めての体験もさせていただけました。この短期間で多くの思い出を残すことができ、ホストファミリーの方々の気遣いや優しさ、心の温かさなど素敵な人間性を感じられる大切な時間となりました。

そして、現地で日本人のあやのという女の子に出逢えたことは、私の人生の強い支えになったと思い  ます。彼女は私の1軒目のホームステイ先に8月から交換留学生としてホームステイしていました。同い年にもかかわらず家族のもとを離れて1人で外国に飛び立ち、自らの力を使ってアメリカでの生活を送っている彼女のたくましさに圧倒されました。そんな彼女が大切にしている言葉を教えてくれました。

『YOLO(You Only Live Once)』。人生一度きり、という意

味があります。彼女はその言葉を支えに過ごしているそうです。たった 2、3 日しか一緒にいられませんでしたが、同じ日本人で同じ年齢で同じ性別の彼女の存在は、この人生で決して忘れることはないだろうと思います。滞在中は自分自身を客観視できる場面が多々ありました。自分の足りない部分や欠けている部分を見つめ直すことで、向上心をあげることに繋がり、自然と意欲的  になっていったように思います。なんとなく過ごしていた時間も視線を少し変えてみるだけで何か生ま れてくるものがある、とこの研修を通して気づかされました。アメリカでは月森さんと谷田部さんにとてもお世話になりました。街の紹介や車での移動だけでなく、知らない土地で右も左も分からない私たちの心の拠り所にもなっていただいたように思います。またマクドナルド友の会会長の古川さんや歴史研究家の西谷さんをはじめとするたくさんの方々や両町のご支援、そして温かく見送ってくれた家族に心から感謝しています。私がこうして目標を一つ達成できたのは、周りの支えがあったからだと実感しました。

「行けばわかる」。確実に自分の中で何かが変わります。小さい島から大きな国へ渡るのは勇気がいることですが、大きな一歩を踏み出すことで、自分の世界が広がるはずです。行ったからこそ味わえたこの研修の魅力を次の世代の人たちに発信して、少しでも多くの人に関心を持ってもらえるようこれからも努力していきます。

 

マクドナルド短期留学研修を終えて北海道利尻高等学校       外国語科教諭          宮本順一郎

8月の夏休み中から参加生徒と本格的な準備を始め、出発が近づくとマクドナルド友の会の方々と細かな打ち合わせを持つようになった。その打ち合わせの中で初めて、これほどまでに多くの方々からご支援をいただいている事業なのかということを知った。汗顔の至りである。ご支援をいただいているすべての方々に衷心よりお礼を申し上げたい。

人生において経験しておくべきことが無数にあるが、海外へ行くこともその一つと言えよう。十代後半、しかもこの短期留学のために英検の勉強をしてきた二名にとってはベストタイミングである。私の ような四十代の者が想像するより遥かに多くのものを得ていることは、二人が語らずとも雰囲気から感じ取ることができる。この短期留学がかくも刺激に満ちたものであることに、帰国して初めて気付かされたのである。

 

二人の成長が垣間見えるエピソードをご紹介して、ご支援を頂いている皆さんの御恩に僅かでも報いる ことができれば幸甚である。

ワシントン州でのホームステイを終え、ポートラン ドに向かった。到着して昼食を取った後、在ポートランド領事事務所へ。そこで二人はそれぞれ、内山浩二郎総領事(写真中央)に英語でスピーチを行なったが、実に立派なスピーチであった。私なんぞ、日本 語でもあれほどのスピーチはできない。内山総領事からは「ABCの3段階で『A』」を頂戴した。大したものである。短期留学期間中、最も緊張を強いられた時間だったのではなかろうか。そして、これほど改まった場で外国語を話す機会は、極めて稀有なことである。二人の人生において、実に大きな財産になったと信じる。

そして、帰国後、在札幌米国総領事館へ行き、ハービー・ビーズリー広報・文化交流担当領事(写真左) と面会する機会を設けていただいた。言うべき内容を頭に入れ、ビーズリー領事に向かってスピーチをする二人だったが、領事は文ごとに合いの手をお入れになったり、質問をなさったりする。これは二人にとって想定外のことであった。無論、私にとっても想定外。内心、「これは厳しい」と思っていた。しかし、そこで展開されたのは、領事とのやり取りを楽しむ二人の姿であった。日本語も交える心配りをなさるビーズリー領事には、帰国間もない我々を労うかのように、心地よい時間を提供して頂いた。さて、この短期留学に並々ならぬご尽力をいただいているのが、コーディネーターのお二方である。最初に行ったスポケーンでお世話になったのが月森愛鶴美さん、その後、ポートランドでお世話になったのが谷田部勝さんである。お二方の善意がどれほどのものか語りつくすことができない。私のような人見知りをする人間には、意気投合する人がそう現れるものではない。しかしアメリカで出会うことになるとは予想だにしていなかった。それが月森さん(写真右)である。人見知りはするが図々しい私は「お母さん」と呼び、この上なく寛容な月森さんはそれを許してくれた(と解釈している)。人間観察眼があまりに鋭く、自分でも気づかない一面を指摘されたときは、ぐうの音も出なかった。メールの最後に、「アメリカンマザー」と書いてくださる月森さん。たった数日で、本当に多くのことを教えていただいた。谷田部さん(写真中央)とは、吉田PTA会長と本校校長も合わせた4人でご一緒させていただい た。道中いろいろと解説を交え、ありとあらゆるところにご案内いただいた。とにかく博識である。お陰でアメリカの自然を堪能することができ、その雄大さにただただ気圧されるばかりであった。レスリングをされていたタフガイとは言え、かなりご無理をお願いしたような気がしてならない。11月6日、ご子息が結婚式を挙げられたとの由。翌日、「息子の結婚式はお陰様で晴天に恵まれラッキーでした。」とのメールを頂戴した。慶賀に堪えない私は、記して谷田部さんとご子息のご多幸を皆さんとともに祈念したいと思う。

幸運にも、お二方とは胸襟を開いて本短期留学事業について議論する場面があった。厳しいご意見を   頂いたのも確かである。しかし、そのいずれも、お二方が本事業に精力を傾注なさっているからこそ聞くことができるものであり、また生産的なものであった。ほかの誰よりも、本事業の発展を望んでおられるのである。それにお応えできるものにする義務を学校側は負っていると痛感している。

一生忘れることのできない機会を二人に与えていただいた。そこで得た経験を糧にして、周囲の人た    ちより一層研鑽を重ね、自らを育てていかなければならないと二人には伝えたい。そして皆さんには、二人を温かく見守り、お力添えをお願い申し上げる次第である。

 

International Ranald MacDonald Prize awarded to Fred Schodt

Tuesday, February 28th, 2017

Amsterdam, September 11, 2016 ~~  The Cultural Public Benefit Organization awarding the prize, Friends of MacDonald • The Dutch Connection,  abbreviated as FOM NL, would not have existed if Frederik L. Schodt had not written a biography of Ranald MacDonald (1824-1894). In his Native American in the Land of the Shogun: Ranald MacDonald and the Opening of Japan (Stone Bridge Press, Albany CA, 2003) he brings to life a ‘true cultural and racial hybrid—in the best sense of the word— (who) assumes heroic proportions because of his success in carving his own path in life, in an often unfriendly world’, in short, an example to follow. But, besides this book, Schodt – he calls himself a niche writer – has written many other works on related subjects, essays, historiography and translations. Therefore FOM NL granted him a special prize of 2500 euro for his oeuvre.

On October 11, 1848, year of revolutions in Europe and the gold rush in California, Japan still being ‘closed’, Ranald MacDonald met in Nagasaki with the Japanese ‘Dutch Interpreters’ and the Dutch ‘opperhoofd’, ‘chief’. This small event, which made it to the headlines in the Dutch newspapers because ‘the opening of Japan’ was hot in those days, was the reason to choose October 11th for the annual award ceremony.

The “International Ranald MacDonald Prize” will be awarded annually to the work of a debut writer or artist which is exceptionally ‘true, good and beautiful’ and sheds new light on the relations between Asia, Europe and North America. The novel In het licht van wat wij weten / In the light of what we know (Hollands Diep, Amsterdam, 2015) by Zia Haider Rahman fits this description precisely. Indeed, this book is so comprehensive, so wide ranging and has, eventually, such a remarkable outcome, that the first winner exceeded all expectations. Its quality will be the touchstone for any future award. The prize amounts to 5000 euro and the ceremony was held October 11, 2016.

~Fred Dijs   http://www.friendsofmacdonald.nl/en/2016/09/press-release/

 

追悼:富田虎男先生 ~~ 河元 由美子

Sunday, August 28th, 2016

「もしもし、富田です。お会いしたいのですが・・・」、どこか遠慮がちな電話を頂くと私はすぐ日時の約束をとりつけ、所沢の駅に出かけて行った。当時先生は所沢にお住まいで、私たちは駅近くの喫茶店で時間の許す限り話し込んだ。奥さまの介護で長時間家をあけられなかった先生の家庭の事情があったので、1時間半の所沢行きは私にとって負担ではなかったし、少しでも先生とお話出来る機会をもちたかったのである。話題は研究のこと、学会情報など学術的なことのほか、旅の話も多かった。話は何時もマクドナルドのことに及び、懸案になっていたマクドナルドの本発行の可能性について色々話し合うのだった。

話は1996年10月にさかのぼる。マクドナルドに関心のある何人かが立教大学富田研究室に集まり、アメリカのFOMとは別に「日本マクドナルドの会」を立ち上げた。会長は富田虎男氏、事務局は利尻の西谷榮治氏、会員は逢坂祐二、稲上護、石原千里(いしはらちさと)、宇城祐司(うしろゆうじ)、河元由美子の面々で、これに長崎在住の塩田元久、海外からはフレデリック・ショットが加わった。会の目的はマクドナルドに関するさらなる研究とマクドナルドの本刊行にあった。日本国内でマクドナルドに関する出版物と言えば『マクドナルド「日本回想記」インディアンの見た幕末の日本』(ウイリアム・ルイス、村上直次郎編、富田虎男訳、1979年初版、1993 年補訂版、刀水書房)のほか、まとまった出版物がなかった。そこで会員それぞれの知識を結集し、新しい資料を加えた独自のマクドナルド像を1冊の本にまとめ上げたいという希望を抱き、富田先生が全体を編集監修することで意見が一致した。それぞれが熱い思いを抱き、準備のための会合は数回に及んだ。日本を目指すためのハワイにおける準備活動、利尻上陸から長崎護送まで、長崎における取り調べや大悲庵での英語授業、プレブル号による引き渡し交渉、離日後のマクドナルドの動行など大まかな部分分けが行われ、会員が自分の得意とする分野を受け持ち、出来上がった原稿を富田先生に送った。

この作業だけでも多くの時間が費やされた。書きだすとつい自分の思惑が先にたち、時にはマクドナルドを離れた内容になってしまう。それを先生は根気よく一本の作品にするための努力をなされた。他人の原稿をむやみに書き直すことは出来ない。元の原稿のオリジナリティーを活かしながら全体の統一性を失わないように編集するのは並大抵のことではない。

原稿提出にも時間的なばらつきもあり結局作業は頓挫、富田先生はみなの原稿を預かったまま編集責任の苦渋を負われたのである。年月がたち会員達の高齢化による変化が見え始めた。先生自身もご自分の健康状態の悪化や奥さまの介護などで、自由にマクドナルドに懸ける時間には制約があった。私の所沢訪問はこうして始まった。その後先生は清瀬の老人ホームに居を移され、私は清瀬にも先生を訪ねた。この時には放射線の再治療などで大分体力が落ち長く話すにはかなりお疲れの様子であったが、それでもマクドナルドの原稿と資料はしっかりとそろえられ、しかるべき後継者に委譲する準備をされていた。私自身も体力、能力、時間などを考慮すると残念ながらこれ等の貴重な資料を預かることに責任が持てなかった。幸いこれらの原稿と資料は現在利尻の西谷氏に受け継がれ、北海道新聞社の協力のもと再編集作業が行われようとしている. 最後まで心を残された富田先生にマクドナルドの本が刊行され墓前にささげることが出きれば大変喜ばしいことである。~~ Yumiko Kawamoto

A Tribute to FOM-Japan ‘Founder’, Torao Tomita

Sunday, August 28th, 2016

Mr. Torao Tomita, Professor Emeritus of St. Paul’s University in Tokyo and Chairman of Friends of MacDonald Japan, passed away on June 11, 2016 at the age of 87.  Prof. Tomita came across Ranald MacDonald in 1969 when he attended the live play “Grassroots Warriors” performed by the Bunka-za Theater Group. Tomita-san was quite intrigued when one of the actors – portraying an American Indian named Ranald MacDonald – proclaimed that “in America, the People are more important than the President”.  Based on this single statement, Mr. Tomita began doing his own research into the man Ranald MacDonald, reading everything he could find, including the Narrative written by MacDonald and visiting as many of the places MacDonald had mentioned, both in Japan and in America.  In 1979 Tomita translated Ranald’s Narrative into Japanese, and published his own revision in 1981 and again in 2012. Eventually, as his research continued, Mr. Tomita revised his original portrayal of Ranald MacDonald from a youth who seemed a rather “reckless adventurer” into a rational, deliberate and thoughtful adventurer.

富田虎男先生から受け継ぐマクドナルド~~利尻島 西谷榮治

Saturday, August 27th, 2016

「マクドナルド上陸記念碑の建立を祝ってラナルド・マクドナルド利尻島上陸記念碑の建立に際し、私ども日本マクドナルド友の会から、心からお祝いを申し上げます。野塚岬の丘の上に立つと、はるか150年も昔、マクドナルドが草履をはき、二人のアイヌに手を引かれて、おぼつかない足どりで浜辺から上がってくる姿が眼に浮かびます。厳しい鎖国令下にある日本に潜入するため、慎重で大胆な冒険家マクドナルドが選んだ戦略は偽装漂流と、島の人びとの温情にすがることでありました。それは美事に成功し、野塚の番小屋では、タンガロと誤記された番人多治郎との暖かい友情まで生まれました。同じ平地に立って一対一で対等に向き合えば、いつの時代でも、どこででも、暖かい人間同士の交流が成立するのだ、という事をマクドナルドは身をもって示してくれたのです。10年ばかり前に、アメリカ側にフレンズ・オブ・マクドナルドが結成され、アストリアの丘の中腹にある生誕地に、マクドナルド顕彰碑が建立されました。ここ野塚の上陸記念碑とアストリアの顕彰碑は、太平洋を挟んではるかに向き合い、初めは言葉も分からない人間同士が、相互に相手を信頼し合えば、深い友情の絆で結ばれうるという事を、訪れる人びとに語り続ける事でありましょう。ひと言つけ加えたいと思います。それは、この記念碑の建立を誰にもまして悦んで下さるはずの二人の方を、最近相ついで失ってしまった事です。一人はフレンズ・オブ・マクドナルドの会長冨田正勝氏であり、もう一人は日本マクドナルド友の会の発展に尽くされた高橋正樹氏であります。お二人の御冥福を祈りたいと思います。1996年10月23日 日本マクドナルド友の会 富田虎男」

今から20年前の1996年10月23日、利尻島野塚岬に建立されたマクドナルド顕彰碑・吉村昭文学碑除幕式の立教大学名誉教授富田虎男先生の祝文である。

マクドナルドの利尻島上陸に手を引いた二人のアイヌ人、上陸してから芽生えた番人多治郎との暖かい友情。マクドナルドの生誕地米国オレゴン州アストリアの丘の中腹と日本国利尻島野塚とに太平洋を挟んで向き合う二つの記念碑。富田虎男先生の祝文を今一度読み直した私は、マクドナルドと島人たちの出会いを過去、現代において建てられた記念碑は物として使うのではなく、人は心と心、物は物語として膨らませて現代に繋げ、未来の交流を創って行く事の大切さ強く感じた。このことから、アストリアに建つ顕彰碑の上の五角形はマクドナルドが生まれたアストリア、捕鯨船から離れて上陸した焼尻島、初めて人と出会った利尻島、オランダ通詞たちに英語を教えた長崎、墓のあるトロダの五ヶ所を表していることになると思った。

病気療養中の富田虎男先生は2016年6月11日の未明、87歳で永眠された。家族葬にて6月16日午後6時から通夜、翌17日午前11時半から告別式が埼玉県所沢市の所沢市斎場で行われた。葬儀会場で富田虎男先生の遺影写真を見ながら様々に思いが蘇ってきた。

富田虎男先生がマクドナルドに出会ったのは1969年の劇団文化座「草の根の志士たち」だったという。公演で「長崎にはアメリカのインディアンがいて、アメリカでは一番偉いのは人民、その次が大統領」という台詞から、マクドナルドの事を知った富田虎男先生は、マクドナルドに縁のある米国・日本各地を訪れ、マクドナルドの日本回想記に書かれている事柄を確認しながらマクドナルドを追い続けた。その成果を1979年に富田虎男訳訂『マクドナルド「日本回想記」-インディアンの見た幕末の日本』として発刊した。その後、1981年に補訂版、2012年に再訂版を出している。発刊後に得た新しい資料等を基にして書き換えてきた。再訂版には「鎖国の日本に潜入した命知らずの大胆不敵な冒険家というラナルドのイメージは消え失せ、大胆ではあるが用意周到な冒険家というイメージが私の中に浮かんできた」と書いている。

富田虎男先生のマクドナルド研究の視点から「日米民間交流の先駆者ラナルド・マクドナルド-鯨が開いた鎖国の扉-」として、マクドナルドの調査研究とまとめを引き継ぎたい。~ Eiji Nishiya, Rishiri Isl., FOM Japan

FOM-NL “The Dutch Connection”

Saturday, August 27th, 2016

The First Ranald Macdonald Prize to be awarded on October 11, 2016

Long ago, in 1993, I took a trip to Indonesia, and ever since then I have searched for some thread I could follow that connects Holland westward – not eastward – to the Far East. Fifteen years later I found this thread in Frederik Schodt’s biography of Ranald MacDonald. In 2008, my best friend Josje-Marie Vrolijk and I traveled westward around the world in the footsteps of Archibald McDonald and Ranald MacDonald. That was when we met you, the Friends of MacDonald. The trip was so inspiring that I became a very good friend of both Ranald and his modern friends.

My father died in 1999, and when my mother passed away in 2011 I decided to use the inheritance, earned by them in the private sector, for something useful in the public sector. That is how the idea for the Ranald MacDonald Award was conceived. But it needed some time to gestate. The name of the foundation, The Friends of MacDonald • The Dutch Connection, was inspired by a nickname Bruce Berney kindly gave Josje and me during our 2008 trip, and the foundation itself was formally established on November 12, 2015. It would not have been possible without a little help from my friends, actually without much help, from many friends, including you. And I am very grateful to all. 

Frederik Schodt suggested having the award ceremony on October 11 of every year, in commemoration of that Wednesday in 1848, when Ranald MacDonald arrived in the bay of Nagasaki on the Tenjinmaru and was met by the Japanese government’s interpreter, Einosuke Moriyama, and the Dutch trading factor, Joseph H. Levyssohn. I was very happy with this idea, because this small meeting beautifully symbolizes the meeting of ‘the West’ coming from “the East”; the “East” in this case being on the spot in Nagasaki and ‘the West’ coming from the true west—a directional meeting that I have long been intrigued by, and which shall always be central in the works we are henceforth going to commemorate. So, in the official papers of FOM NL, as we have abbreviated the name, October 11 is now the official date for the award ceremony.

For details about the prize, please visit the website of the foundation and/or its Facebook page (see below). For a short explanation, the text on our business cards should suffice:  “Friends of MacDonald • The Dutch Connection – a Cultural Public Benefit Organization which tries to advance insight in relations between Asia, Europe and North America. Its major activity is to grant the ‘Ranald MacDonald Prize’ to a young writer or artist whose work sheds new light on those relations. The prize amounts to 5000 Euros and will be announced every October 11.”

I suspect there is one thing readers of this description might consider odd: the award is Pan-Asian, Pan-European and Pan-North-American, which might seem to be too much to put on the shoulders of one individual like Ranald. But on the other hand, Ranald MacDonald was very much like you and me, operating in a highly unbalanced world. And it seems to me that we are all living again in a highly unbalanced world. Just as Ranald MacDonald cannot be understood without understanding the world he lived in, so, too, are we unable to understand ourselves without understanding the world that surrounds us. FOM NL therefore seeks to recognize and encourage the work of people who can help us understand what is happening. I like to think that Ranald MacDonald would be very happy with our goal, and I hope you agree.

As I write this, it is August 17, or “Hari Proklamasi” or Independence Day, in Indonesia, where I was born. At FOM NL we are now judging some fifty  works of writers and artists from all over the Northern Hemisphere, and we are trying very hard to select just one. This is not easy, because, frankly, the applicants all really deserve the award. But in the process of deciding, the name of Ranald MacDonald will become better known in the Netherlands – and every year one modern individual will be very surprised to receive an award named after him. Is not that amazing?

Fred Dijs, Secretary,  FOM • The Dutch Connection  

Our Largest Group Yet!

Tuesday, June 28th, 2016

Our largest group yet!  A hearty “thank you” to those attending this years’ Friends of MacDonald Membership meeting!  Especially wonderful was being able to host members of Clan Donald, North Pacific Region, Clan Donald USA, who delighted the rest of us with their colorful Tartans and splendid bagpipes!  We also want to welcome and acknowledge Consul General Kojiro Uchiyama, the new head of the Consular Office of Japan in Portland, and his wife Karen, herself a native of Montana, Fr. Dale Johnson and Rev. Deacon George Konig of the Syriac Orthodox Church, who work with refugees in Turkey and Germany, Rex and Keiko Ziak of Astoria, representing the Obon Society, a Japanese-American NPO art history project dedicated to the documenting, exhibiting and return of personal artifacts and personal memorabilia taken as battlefield souvenirs during World War II, and Mr. Koichi Higuchi (who came all the way from Tokyo just to attend our meeting – Mr. Higuchi is kneeling next to our Chairman in the front row; both are wearing FOM t-shirts designed by Mr. Higuchi.) 

                Over the past year we have been able to introduce Friends of MacDonald to new and different groups.  As you might remember, in July 2015 our Chairman gave a power point presentation to a group of 30 young English teachers who were taking part in Japan’s Ministry of Foreign Affairs program entitled “Japan-US Training and Exchange Program for English Language Teachers”.  The presentation was a resounding success, so much so that Portland was again chosen to host another group in August 2016.  This is significant since only three US cities are chosen to host each year.  When these teachers go back to Japan and present what they have ‘learned’ during their time here in the US, they will spread the story of Ranald MacDonald to a new generation of students, aided by FOM’s gift of the book “Unsung Hero” (written by Atsumi Tsukimori of Spokane) that was presented to each of the participants last July (as will happen again this August).  Also part of this year’s presentation will again be FOM’s “Storyteller Laureate”, Mr. Alton Takiyama Chung. 

Members of Clan Donald pose with FOM Chairman Mas Yatabe in front of the MacDonald birthplace monument